映画『ハンガー・ゲーム』の初編が2012年に公開された時、娘のベサニーは11歳だった。娘の学校では『ハンガー・ゲーム』を推す10歳前後の子ども達の強硬な圧力グループが結成され、それに影響された娘は、我が家で盛んに活動を始めた。娘は何とかしてこの映画を観たいと思っていた。私は同じぐらい強い気持ちで、娘にこの映画を観せまいと決意していた。

ある時点で、私はどうしようもなくいら立って、娘に言い放った。「一体どうして、子ども達が死ぬのを娯楽作品として見せる映画を観たいと思うの?」

娘の答に私は驚かされた。「ママ、それはね」と彼女は考え深げに言った。「いいストーリ−であるためには、そこに懸かってるものが大きいってことを知ってる必要があると思う。生きるか死ぬかだってことに気づかないといけないのよ」。

この映画をめぐる議論にどちらが勝ったか、ここでは言わないでおく。だが、私はほぼ1年前、ストーリーについてベサニーが示した考察を思い出したのだった。それは、私が初めて灰の水曜日の礼拝に出席した後のことだった。

古来のリズム

夫のマークも私も、いわゆる福音派の教会で信仰を持った。そこでは「教会暦」と言えば、教会のイベントや誕生日が書かれたリストを意味した。もちろんクリスマスは祝うし、イースターも祝うが、それ以上のことはない。アドベントについての私の経験は、チョコレートが埋め込まれているカレンダーがドラッグストアに売られているのを見ることぐらいだった。ペンテコステは、近所のカリスマ派のものだったし、受難節は神秘的で、カトリック教会が守っているやや中世的な慣習だった。

いい大人になってから初めて、私たちは教会の古来のリズムに興味を持った。私たちが親しくなった友人の中に、典礼の伝統を守りながらイエスに従っている人たちがいた。彼らは一定の儀式やシーズンを守ることで、活力を得ていることが見て取れた。この世界にあふれる時計や危機、昼間限定、締切などが、どれほど容赦なく彼らの回りを前進していっても、彼らはそれとは別のリズムにつながっているように見えた。それは、もっと秩序整然としたストーリーで、様々な区切りを彼ら自身の生活の中に自然にあてはめていた。

私たちもそれを体験したいと思った。

そういうわけで、私たちは徐々にこの一風変わったリズムに私たち自身の生活を合わせるようになった。アドベント、クリスマス、公現祭、受難節、受難の聖節、イースター、昇天日、ペンテコステ、そして「通常の時間」を経て再びアドベントに戻る。こうした時間の区切りが、私たちの生活の中でめぐり続ける。このようなシーズンをごく一部しか記念しない教会に、私たちは今も出席しているが、心と頭を教会暦に沿わせることができる時は、神のストーリーに少し深く浸る。

灰の水曜日に初参加

私たちは40日間(と聖日)に及ぶ受難節を守って数年たつ。この期間中、ちょっとしたことだが結構大変な制約(コーヒーやソフトドリンクや甘い物を断つ)をいろいろ実践し、自分の生活の安定を崩し、創造主ではなく人間的な慰めに依存している、小さいが心をむしばむ物事をあらわにする。このシーズンに私たちがあきらめるものは、ごくごく小さく笑い飛ばされそうだが、天の父は、こんなささやかな献げ物をも喜んで用いて、神の恵みの手段としようとしてくださっているのだ。空腹にさいなまれ、カフェインを渇望するたびに、聖なる促しを受ける。祈り、信頼し、明け渡しなさい、と。受難節全体が、期待に胸をふくらませるシーズンとなる。なぜならイースターが近づいているのだ!

ただ、受難節がもたらしてくれるものに対する期待感は大きくなっても、夫マークと私はまだ灰の水曜日を守ることについてはよく知らなかった。かつて受難節は何か不気味なものと敬遠していた。ましてや受難節初日の灰の水曜日は、教会によっては悔い改めの礼拝式と灰の十字架のしるしを描く儀式を行う日だが、私たちにとっては、記念日の中で最も暗いものに思えた。それでも昨年、私たちは近くの教会の中で灰の水曜日礼拝を行っているところをインターネットで検索していた。受難節を守るなら、その初日の儀式にも参加してみようという気持ちになったのだと思う。

隣り町のある教会が夕拝を行うことを、ネット上で知った。ある暗い雨の夜、その教会を探しに出かけた。途中で迷い、夫婦喧嘩をし、もう家に帰ってホッケーの試合を観ようかと考えた。だが、なんとかあきらめずに、雨に濡れ、不機嫌になりながらも、20分遅れで礼拝にもぐり込んだ。

ワーシップソングを何曲か歌った。みことばが朗読された。そして、前に進み出て、牧師に灰の十字架を額に描いてもらうよう促される瞬間がやって来た。

私はその灰の出所を知らない。聞いたところでは、灰の水曜日を守る教会では、前年のしゅろの聖日で使った小枝を取っておいて燃やす習慣がよくあるという。この習慣はすばらしく詩的で、とても不可思議だと思う。私が初めて参加した灰の水曜日礼拝の灰も、そんな背景を持っていたらいいと思うが、わからない。

わかっているのはこうだ。私たちが前に進み出ると、その時初対面ではあるが、私のような者たちの羊飼いとなる誓いを立てた男性が、私の額に親指を当て、私の目を見て、こう言った。「覚えていなさい。あなたはちりであって、ちりに帰る。」

式文にのっとった正しい応答は何だったのか、私には全くわからない。神に感謝?あなたにもそうであるように?アーメン?自分がちりであるという宣言に対して、何と言うべきなのか?私はうなずいただけだったと思う。もしかしたらつぶやくように「はい」と言ったかもしれない。

礼拝は終わった。ホッケーの試合の第3ピリオドを観るのに間に合った。額になすりつけられた十字架はそのままにしていた。うちの十代の子ども達が帰宅して、私たちの姿を見た時、驚嘆と落胆の入り混じった彼らの困惑した表情を目にして、私たち夫婦はくすくす笑った。

「自分がちりだと言われるだけのために、なんで礼拝に行くの?」と娘は言い放った。

後で眠りに落ちる寸前、額の灰は洗い流されたものの、皮膚はまだ十字架の形にちくちくしていた時、娘の問いに対する答を見つけた。いいストーリ−であるためには、懸かっているものが大きいってことを知っている必要がある。生きるか死ぬかしかないってことを知っていなければならないのだ。

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私たちはちりにすぎない

人間のストーリーは、私のストーリーでもあるが、始まりはもちろん創世記だ。神が一握りのちりを取って人を形づくり、その鼻に息を吹き込んで生きる者とした(創世記2:7)。その次の章で、最初の人間たちは早くも自分たちがどこから来たかを忘れ、反逆を試みた。神はアダムとエバに、解放を求める彼らの願望は、実際には死を願うようなものだと説明する。神から自分たちを切り離すことは、命の息から自分たちを切り離すことだ。「あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ」(創世記3:19)と神は彼らに思い起こさせる。

ストーリーはそこから展開し、人間側から見た筋書きは、かなり暗いものだ。戦争と反逆のうんざりするような繰り返しで、その間に人間は、もう一度命の息を吹き込むことのできるお方から、ますます離れていく。

しかし、栄光の王はまた、筋書きに意外な展開を加える王でもあり、私たちと同じようにちりから造られたイエスという人として来られる。毎年、アドベント、クリスマス、公現祭、受難節、受苦日、イースター、ペンテコステを記念する時、私たちはイエスが来られたこと、その忍耐、犠牲、死に対する勝利、そして今日私たちに差し出してくださる命のことを思い起こす。

ヨハネによる福音書には、ごく最近まで私がなぜか見逃していた、イエスのストーリーの中のある瞬間がとらえられている。イエスは死者のうちから復活した。弟子たちは、宇宙のこの秩序再編に直面して、彼らの友の輝かしい存在を前に恐れと喜びとに満たされた。私は想像する。弟子たちはきっと恐れのあまり、自分たちがくずれて灰になってしまうように感じたのではないか。その時、イエスはこう断言した。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」(ヨハネ20:21)。

そして、ヨハネは私たちにこう語る。「こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」(22節)

神の息がなければ、私たちはちりにすぎない。受難節を前にして、灰の水曜日は私たちに思い出させてくれる。生か死かが、私たち自身のストーリーの中に懸かっており、私たちを整えてくれるのだ。私たちの向かう先は、ユージーン・ピーターソンの言葉を借りれば、「世が全く知らないような死だ。(中略)その死は復活というダンスのために場所を空ける」。

神に感謝。

Carolyn ArendsはRenovaréの教育責任者、またレコーディング・アーティストである。詳しくはCarolynArends.comを参照。

[ This article is also available in English. See all of our Japanese (日本語) coverage. ]