どもの頃、毎年家族が受け取るクリスマスカードを順繰りに見るのが好きだった。ソーシャルメディアの登場以前、年に一度、郵便受けに届く数々の写真は、遠くに住む友人や親戚とのつながりを確認させてくれた。

しかし、父が亡くなった後、クリスマスカードは自分が失ったものを思い出すきっかけになった。微笑みを浮かべた欠けのない家族の写真と、ほがらかな挨拶は、傷口にすり込まれる塩のようだった。クリスマスは、親しい人を亡くした人には決まって辛い季節だ。だが私にとっては、1年中抱えていた悲しみに加えて恥を感じる季節だった。傷ついた子どもの私は直感的にこう考えた。「私たちきょうだいは、もうクリスマスカードには登場できない。だって、うちの家族はもう完全じゃないから」。そういうわけで、父の死後、私の家族はクリスマスの挨拶状を出すことはなかった。

現代社会は核家族をやたらと持ち上げるが、クリスマスには宗教的なトーンを帯びてくる。マリアとヨセフと、飼い葉桶に寝かされたイエスの姿を、家族が共にいることについての自分自身の感傷的なイメージと重ね合わせる。教会ではアドベントキャンドルの点火係として家族を招く。親戚も共に集まって、お祝いの席に着く。あらゆるお祭り騒ぎの中で、「地にある平和」は、クリスマスツリーの前に集まる欠けのない健全な家族にだけ訪れるのだと思い込むのは、容易なことだ。

断っておくが、家族は神からの贈り物であり、喜び祝い、支持する価値のあるものだ。神が家族を創造された一つの理由は、愛することと愛されることを私たちに教えるためだ。この世界は、共にいるという困難で尊い作業を家族が実行するのを目撃する必要がある。しかし、新約学者エサウ・マコーリーが記すように、「私たちが抱くクリスマスの家族のイメージは、飾りに囲まれ、裕福で、幸せで、欠けがないかもしれないが、それは実は、最初の[クリスマスの]良い知らせにはなじまない。」

イエスご自身の家族は、必ずしもクリスマスカードにふさわしいモデルではなかった。最初の「クリスマス」(降誕)は、伝統的な家族と一緒に心地良い家で過ごしたのではなく、未婚の母と養父と共に家畜小屋で過ごした。幼少期をいろどっていたのは、母親の妊娠にまつわる社会的な恥(マタイ1:18–19)と、一家のエジプトでの避難生活に伴う恐れ(マタイ2:13–15)と、貧困という現実(ルカ2:24)だった。

しかも、イエスご自身は成人となっても、伝統的な意味での家族を持たなかった。死に至るまで独身と禁欲を貫いた。

幼くして父を亡くした者として、私はイエスの家族の物語がこんなにも複雑だったという事実に大いに慰められる。受胎の瞬間から、インマヌエルは、私たち皆と共にいる神であることを示してくださった。権利を奪われた人、貧しい人、未婚者、近親者を亡くした人、皆の神なのだ。クリスマスの不思議、つまりキリストがそばにいるという不思議な力は、その力から疎外されたように思われる、まさにその人々のためにある。イエスご自身の家族が、この真理の証拠である。

しかし、イエスとその両親は、教会史の中で聖家族と名づけられているが、イエスご自身が開始した新たな、もっと広い枠組の模範も示してくれる。ご自分の家族への忠誠心について問われた時、イエスはこう教えられた。「だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです」(マタイ12:50)。イエスの人間の両親は、福音書の中で、このような服従を示した最初の人物だった。

ガブリエルのメッセージに対して、マリアがあの有名な受諾の言葉を発したことで、彼女はイエスの母となった。彼女は神のみこころに同意し、最も個人的で、犠牲を伴う肉体的な方法で、神を受け入れた。これによって、マリアは救済史の中で唯一無二の人となり、すべてのクリスチャンにとっての模範にもなった。

同じように、ヨセフはマリアを妻として迎え、彼女の子を自分の跡継ぎとして受け入れなさいという天使の命令に服従した(マタイ1:18–25)。ヨセフの徹底的なへりくだりと、しもべの姿勢とは、この世の体制に逆行する神の国を例示し、今日に至るまでまで私たちにとって預言的な証しである。

神への共同の服従において、マリアとヨセフは、アダムとエバに対して意図されたような生き方を共にした。マリアとヨセフのパートナーシップは、あがなわれた人類、すなわち神の家族の始まりを表す。言い換えれば、クリスマスのストーリーの主要登場人物は、単に核家族の模範を私たちに示すのではない。彼らは教会の模範を示しているのだ。

私自身の子ども時代、父ががんと闘っていた間も、亡くなった後も、教会は私にとって聖家族となった。神に従い、私の父や母となってくれた共同体だった。教会は、母が未亡人として6人の子をなんとか育てていく間、母の回りを囲み、母を支えた。教会員は私ときょうだいに食事や衣服を与え、時には自宅に滞在させてくれた。特に数人の男性は、霊的な父親として私たちを忠実に訓練してくれた。彼らが長期間にわたってそばにいてくれたおかげで、私の人生は変えられた。

何年も経った今、この男性たちの影響は、私にヨセフのことを思わせる。ヨセフが父親を務めたのは、生物学的な子に対するものにとどまらなかった。教皇フランシスコは、ヨセフの働きについてこう記している。「父親は生まれるのではなく、つくられるものだ。(中略)一人の男が別の人間の人生に対する責任を引き受ける時は必ず、ある意味、その人の父親になるのだ。」

イエスは家族を廃するために来られたのではない。むしろ家族を拡張するために来られた。私たちが、子としてのイエスの地位を共有し、彼の家族の食卓に着くことができるように、来てくださった。見知らぬ人同士をきょうだいにし、子のない男女を霊的な父や母にするために来てくださった。だからといって、家族の不和や死別や、望まないかたちでの独り身の痛みが消されるわけではない。しかし、その痛みの意味が変えられるのだ。そして、すべてのクリスチャン家庭は、その共同生活という働きについての理解の仕方を再編成されるべきである。

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ジャスティン・ホィットメル・イアリーは、その著「Habits of the Household(家庭の習慣)」の中で、核家族はホスピタリティを宣教の一つのかたちとして取り入れるべきだとチャレンジする。

「自分の家庭を大事にする理由は、自分の責任がもっぱら血縁者に対してであって、その他の誰に対してでもないからではない。それは隠れみのを被った部族中心主義だ。」と彼は言う。「そうではなく、家族を大事にする理由は、私たちに対する神の祝福が他の人々に及ぶのは、家庭を通してであるからだ。」

クリスマスが近づく時、私たちは小さな非伝統的な家族のことを思い巡らすことができる。そこから、キリストの誕生を通して、神の祝福が世界に及んだ。そして、この家族が拡張して、私たち一人ひとりを包み込んでいく様子に私たちは驚嘆することができる。

私のデスクに置かれた聖家族の肖像を見るたびに、私はこの真理に驚嘆する。肖像画は私の妊娠中に友人がくれたもので、たいていはこれを見ると、3人の子の母としての自分の働きのために祈るよう導かれる。しかし、時として、自分がなぜかこの家族の肖像画の一部となっているようにも感じる。

もちろん、イエスの人間の家族は昔も今もはっきり決まっている。だが、その霊的な家族には「血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって」生まれた人々も含まれる(ヨハネ1:12–13)。この家族はあらゆる部族、言語、国民から成り、その行き着くところは父なる神との永遠の交わりである(黙示録7:9–10)。

数年前、ことのほか辛いクリスマスを迎えた。私はきょうだいが急死した悲しみの中にあった。その時、私は聖家族を描いた別の絵をみつけた。「マリアとエバ」という題のその絵の中で、エバは裸で、悲しげで、両脚には蛇が絡みついている。マリアは妊娠中で、白いドレスを着、その蛇の頭を踏みつけている。

この絵柄は、私個人のクリスマスカードのようになった。この絵は、何らかのかたちの核家族が究極的に成就することを追求するのではなく、私自身と愛する者たちを御子に委ねるようにと教えてくれる。御子は私たち皆を息子、娘にしてくださる。

深刻な喪失と長引く孤独に直面する中で、この途切れることのない家族の系譜は私たちを支える。主が来られる時まで、兄弟姉妹のコミュニティとして、どうやって共に生きるかを私たちに教えてくれる。そして、私たちの悲しみを、来るべき再会と復活の大いなる希望のうちに組み込んでくださる。

Hannah Kingは北米聖公会の司祭であり執筆家である。サウスカロライナ州グリーンビルのビレッジ教会副牧師として仕えている。

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