カによる福音書は、他のどの福音書よりも、倫理に関するイエスの教えの全体像を伝えてくれる。イエスのたとえ話の過半数は、ルカにしか記されていない。扱われているトピックは、お金の管理法、世が見過ごしにする貧しい人、障がい者、女性などに目を留めるイエスなどだ。

その倫理観の根本にはイエスがおられ、神の国についての説教がある。

私は40年余りの専門的学究生活を、クリスチャンの職業奉仕とルカによる福音書の研究に費やしてきた。ルカ伝の鍵となるテキストは、イエスの宣教の範囲について私の目を開いてくれた。それは、若い頃、クリスチャンだった私がめったに聞いたことがないようなことだった。

最初のそのような個所はルカ1章にある。ガブリエルは洗礼者ヨハネの誕生と名づけ方を、父ザカリヤに告知し、ヨハネはメシアのために道を整えるだろうと告げる。

ヨハネはイスラエルの民の多くの者を、彼らの神である主に立ち返らせる。そして、エリヤの霊と力で、主に先立って歩み、父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の良識に立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意する。(16–17節)

聖書の読み方について私がこれまでに学んだことの一つは、本文について問いを発することを通して、その意味を定義するということだ。この個所では、「主の到来ために整えられた民であるとは、どういう意味か」という問いが出てくる。この個所は、二つの部分から成る答を示してくれる。

第1に、期待される部分だ。ヨハネはその民を神に立ち返らせる。これは、本来預言者が行うことを正確に表している。

第2の要素は、私が以前、見落としていたものだ。これは、ヨハネの召しでもあり、救いのために準備された民に対して、神が求めていることでもある。ヨハネは民を二つの重要な領域において立ち返らせると、ガブリエルは告知する。つまり、家族関係(「父たちの心を子どもたちに向けさせ」)、そして社会生活で行使される倫理的良識(「不従順な者たちを義人の良識に立ち返らせ」)である。

このことが示しているのは、悔い改めは垂直的(人から神へ)なだけでなく、水平的(人から人へ)でもあるということだ。悔い改めは一次元的ではない。

来たるべき解放のために民を整えるという召しを、ヨハネが受けた時、私と神との関係、そして私と他の人たちとの関係、その両方が神の心の内にあったのだ。和解と人間関係とは、神がイエスを通して行おうとしていた業のまさに中心にあった。

悔い改め、あるいは立ち返りという聖書の用語は、一つの統一的目標を持つ。つまり、人々を神に立ち返らせ、同時に人と人を互いに立ち返らせるということだ。

この聖書個所は、心と心をつなぎ合わせ、愛を追い求め、他の人のために良いことを追求するために、行動し、生きることについて語っている。

Image: Illustration by John Hendrix

うすればそういう生き方ができるのか、そして誰がイニシアチブを取るのか。洗礼者ヨハネはその道を示す。

悔い改めに対するこの包括的アプローチについて、疑う人があるとしても、洗礼者ヨハネの教えと洗礼についての後出のテキストが、この目標の正しさを証明してくれる。

人々は悔い改めに対する応答として、ヨハネの洗礼に参画した。それは、「私は主が来られる準備ができています」という表明だった。

ルカ3:8–14を見てみよう。(相互関係を示すために、一部の単語のギリシャ語発音を角かっこ内に記す。)

「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい[ポイエーサテ]。『われわれの父はアブラハムだ』という考えを起こしてはいけません。(中略)」群衆はヨハネに尋ねた。「それでは、私たちはどうすれば[ポイエーソーメン]よいのでしょうか。」ヨハネは答えた。「下着を二枚持っている人は、持っていない人に分けてあげなさい。食べ物を持っている人も同じようにしなさい。」取税人たちもバプテスマを受けにやって来て、ヨハネに言った。「先生、私たちはどうすれば[ポイエーソーメン]よいのでしょうか。」ヨハネは彼らに言った。「決められた以上には、何も取り立ててはいけません。」兵士たちもヨハネに尋ねた。「この私たちはどうすれば[ポイエーソーメン]よいのでしょうか。」ヨハネは言った。「だれからも、金を力ずくで奪ったり脅し取ったりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」

この個所のテーマは洗礼者ヨハネのテーマ、つまり悔い改めだ。ルカ3章10節、12節、14節で、異なるグループに属する人々が、悔い改めを実践する(悔い改めの実を結ぶ)ようにというヨハネの呼びかけに応答している。ここでは、メシアのために準備をするというヨハネの使命についての預言が、実地に適用されている。

1:16–17と3:10–14の出来事は、いずれもルカ伝にだけ記されている。福音書の中で、この教えと関係性とを明示しているのはルカだけだ。仮に四福音書を平らに並べ、洗礼者ヨハネについて四福音書が同じことを言っていると想定したとしたら、ルカ伝の重要な強調点を見逃してしまうかもしれない。

ルカ3章のこのセクションの英語訳では、受洗したばかりの人々の質問と、8節のヨハネの奨励との間の言葉の響き合いが不明瞭だ。この個所で私がギリシャ語発音を示した単語は、すべてギリシャ語の動詞ポイエオーの活用形であり、その意味は「作る」、「行う」といったものだ。質問者たちは、ヨハネが求める悔い改めを、自分たちの日常生活にどうあてはめればいいか尋ねている。思い出してほしい。ヨハネはこのメッセージにもとづいて、イエスのために道を整えているのだ。

ヨハネの答は意外なものだ。それぞれのケースで、実際の適用は神への応答の仕方ではなく、日常の場面で他の人たちにどう応答するかを扱っている。

神が自分に与えてくださったものについて(この群衆の場合には、衣服と食べ物について)気前よくするべきこと、自分が持っている役割において(取税人の場合には、他人を金銭的に搾取しないことによって、兵士の場合には、権力を乱用しないことによって)鷹揚(おうよう)であるべきなのだ。

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意外なことに、ヨハネの回答にはいずれも神は直接出てこない。つまり、悔い改めは自分が神とどう関わるかだけではなく、他の人たちとどうやり取りをするかという問題なのだ。

神に立ち返ることによって、他の人たちへも同じ尺度で立ち返る準備をすることになる。言い換えれば、他の人たちに対する時に、こちらから働きかける心を持つようになる。これは、イエスがもたらす御国の到来に向けての霊的準備の一環だ。イエスを迎える準備ができている人は、悔い改めをこれほどまでの領域において実践するのである。

では、これに続くみことば、ルカ5:32を見てみよう。ここでイエスはこう言われる。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」

この個所の文脈が重要だ(29–32節)。イエスは取税人たちと食事をしている。それについて、一部の宗教指導者たちは不満を述べる。多くの人が拒絶する人間と、なぜ一緒に食事をするのか。

イエスは、自分は医者と同じように、必要を抱える人を癒すのだと答える。ここで暗示されているのは、神を必要としない人などいるだろうか、ということだ。

悔い改めへのイエスの呼びかけは、ルカ伝に何度も出てくる(4:16–19; 14:7–24)。ご自分に従う人々が誰に注意を払うべきか、イエスは行動によって示した。見過ごされがちな人々に働きかけ、特別な関心を示すことによって、イエスはご自身の優先順位を実地に示した。

私たちの神は、すべての人に届くことを大事にするお方だ。私たちもすべての人に思いやりを示す時に、その神を証しすることになる。イエスは、悔い改めは実を結ぶべきだというヨハネの論点に基づき、人間関係を修復するために自分から行動をとるようにと私たちに呼びかける。

では、それはどのように行われるのだろうか。包括的な悔い改めという考えの最も明らかな例の一つは、おそらくザアカイのストーリーだろう(ルカ19:1–10)。始まりは、皆から憎まれていた取税人との出会いをイエスが喜んだことだ。この会話から、心が変えられていく。それは、ザアカイの宣言に見られるとおりだ。自分の間違いを償い、コミュニティと和解するという意図を彼は公言した。

この包括的悔い改めの中心にあるのは、イエスとの出会いだ。神を必要とする人をイエスが歓迎する様には、何か人を引きつけるものがあった。そしてイエスはご自分から人に近づき、神がその人を気にかけておられることを示し、それと同時にその人にチャレンジを与えた。この模範に従うよう、イエスは私たちを招いておられる。いつでも和解と思いやりの手を差し伸べられるようにと、私たちを招く。これが、来るべき御国への呼びかけの背後にある心である。

ルカ伝のこれらの個所が相俟(ま)って、私は変えられた。一夜にして変えられたわけではなく、ほんの少しずつ、新たな方向における適用の全貌が明らかになったのだ。

この新たな見方によって、悔い改めについての自分の考え方の盲点が徐々に取り除かれた。そして、救いと人としての変革に対する神のご計画が、どれほど包括的であるかが見えてきた。

ルカ伝のこれらの個所は、悔い改めという言葉が持つ関係的側面と倫理的側面を啓示してくれた。それまでは悔い改めというと、私の神、そして私自身についてのことばかり考えがちだった。

他の人とのつながりという気づきに、私は圧倒された。

今まで見逃していた実に広範な適用があることに気づかされた。私は悔い改めの集団的、社会的、人間関係的要素について思い巡らした。

これらの個所から、神が私に対して、そして神の国を求める心を持ちたいと願うすべての人に対して、どういう心持ちを求めておられるかについて、従来より強い確信を持つようになった。メシアのために整えられた人の心は、他の人々に向かうのだ。自然のなりゆきでは心が向かっていかないような人々に対しても、向かうのである。

私は悔い改めによって、神が求めておられる全領域において、神の心と一致するように整えられただろうか。私の応答に伴って起こるはずだと、神が示された事柄のうち、私が見落としていたものがあるだろうか。

私の応答が浅薄なものだったことを思い、神の赦しを請うとはどういうことか、熟考しなければならなかった。神の赦しは私を神に立ち返らせるだけでなく、人々に対する神の心へと私を立ち返らせるよう計画されていたのだ。

ルカ伝を学ぶうちに、さらに二つの関連するテーマが明らかになった。神が私たちを赦されたように、私たちも人を赦すべきこと、そして偉大な戒めをどう理解するかということだ。

主の祈りには、「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。」(11:4)という請願が含まれる。私にその価値がなかった時、神が私のためにしてくださったことを思い、それと同じやり方で人間関係に取り組むことを学ばなければならない。私たちを赦す用意があることを、神は示してくださっている。

私たちはこの世における損得を数えがちだが、そのような世界において、この考え方は革命的だ。私たちが赦す時、神が私たちを扱われる仕方を実地に示すのだ。神の赦しは完全で多面的だ。これを理解すると、神の赦しにますます感謝するようになり、私たちは変えられ、人に対する私たちの応答も変えられていくはずだ。

偉大な戒めとは、心を尽くし、知性を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、神を愛し、隣人を自分自身のように愛しなさい(ルカ10:27)という命令だ。これにより、神、私、隣人から成る倫理的三角形ができる。ルカ1:16–17および3:8–14が強調しているのと全く同じ三角形だ。

これは新約聖書だけの考えではない。十戒にも含まれている。十戒の前半は、私が神とどう関係を結ぶかについての戒めであり、後半は、私が隣人とどう関係を結ぶかについてだ。

私たちが神に従い、神の模範にならう時、神は私たちの心がご自身と隣人とに立ち返るよう望んでおられる。その倫理的・関係的な中心がどこにあるかを、これらの個所は相俟(ま)って明示する。

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イエスが具体的に教えた愛の範囲には、敵(ルカ6:27–36)が含まれる。これによってクリスチャンは他とは一線を画す存在になるとイエスは主張した。そのような愛は、神のご性質を表し、私たちは悔いた心を持つ神の子どもであることを示す。神の心を思い巡らす時、私たちの悔い改めの範囲はあらゆるものを包含する。

真の悔い改めについてのこの考え方は、聖書において最も包括的で革命的な思考ではないかと思う。神が私たちの心をつくり変えて、神に、そして私たちの家族や隣人に、私たちを立ち返らせる時、神は信じる者たちをこの悔い改めへと導こうとしておられる。

主の到来のために整えられ、そこに参画する民は、そのような地点までついていく用意があり、意欲があり、そうすることができるはずだ。

もし教会がこの目標をあらゆる場合に適用したならば、教会は人々を神へと引き寄せ、この世界を変えていくと思う。準備せよという神の呼びかけは、賢く、赦す心を持ち、隣人への愛と思いやりに満たされるためのイニシアチブを取れという呼びかけだ。最初は赦しや愛などいらないと言う人もいるかもしれないが、そういう人に対しても働きかけるのだ。

隣人に向き合う時、私たちは神にも向き合う。私たちは、隣人が思いもかけなかったようなかたちで、神と隣人に立ち返るように隣人を招いてさえいるのかもしれない。

Darrell L. Bockはダラス神学校の文化エンゲージメント担当エグゼクティブディレクターであり、新約学上級リサーチ教授である。多数の著書があり、直近の著書は「Cultural Intelligence: Living for God in a Diverse, Pluralistic World(文化的知性:多様化した多元的世界において神のために生きる)」。

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