
「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。眺めても、そこを離れると、自分がどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。自分は宗教心にあついと思っても、自分の舌を制御せず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。父である神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っているときに世話をし、この世の汚れに染まらないよう自分を守ることです。」(ヤコブの手紙1:22-27)
これは単に私の性格のせいかもしれないが、聖書を読んでいて時々笑ってしまうことがある。時には文章に笑いを誘われる。たとえば、弟子ヨハネがキリスト復活後に、「ペテロよりも速かったので、先に墓に着いた」と対抗心を露わにするかのように記しているのを読んだ時。あるいは、自分の馬鹿げた点を言い当てているような表現に出会った時。ここで取り上げる例は、後者だ。
23節と24節に「その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。眺めても、そこを離れると、自分がどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。」とあるが、まさにこのみことばの通りのことを最近、私はしていた。ただ、私の場合、その相手は鏡ではなく夫だった。昨日、夫が2つのことを覚えていてくれと私に言った時、私はまっすぐに彼の顔を見つめていた。その10分後、私は夫にメッセージを送った。「出かける前にあなたが言ったこと、全然思い出せない」。こういうことはめったにない、と言いたいところだが、実際はそうではない。多くの人と同様、私はしばしば集中力に欠け、せかせかしていて、注意散漫な状態で生きている。
上記の聖書個所では、気を取られること、意図的であること、そして集中することといった主題が糸のように全体を貫いている。この個所を読む時、ヤコブが声を荒げていたと想定することもできる。みことばを読んでも、それを実践したくないので、無視してしまう人がいるというのだ。もちろんそういう可能性もあるが、信仰を生活で実践しようとする人の多くは、意図的に反抗することはないのではないか。むしろ、私たちは何かに気を取られてしまうのだ。
信仰の実践を邪魔するものは、おそらく反抗心よりも、何かに気を取られることの方が多い。
デジタル世界の特性のゆえに、私たちの脳は、ほぼ常時に近い接続、通知、そして情報によって、文字通り何度も配線し直されている。こうした技術の進歩は多くのすばらしいものをもたらしてくれる。つながり続けられること、教育機会の拡大、国際問題に関する意識向上などは、その一例だ。しかし、こうしたせわしない日常は同時に、注意散漫、意図的意識の希薄化、無限の選択肢によって引き起こされる目的意識の麻ひ状態にもつながる。
注意散漫とはどういうものかを描写するために、ヤコブは3つの例を挙げる。22〜25節では、鏡を見るが、自分の顔をすぐに忘れてしまう人のことが書かれている。26節では、自分は宗教心にあついと思っていても、それとは裏腹なことを語る人のことが挙げられている。27節では、弱い人を愛するという私たちの目的を喚起させ、世が与える他の選択肢に気を取られないようにと奨める。三つの角度から語られているが、皆、私たちが「ぼんやりした信仰者」になった時に起き得ることを描写している。自分の本来の姿や、自分がやるべきことに反抗したり、そこから注意をそらされたりする信仰者のことだ。ひと言で言えば、私たちはつくられた本来の姿からはみ出した生き方をしようとすると、うまく機能することができないのだ。
その一つの理由はこうだ。
私たちはこういうふうに生きるようにつくられたのに、その逆をすると、その対立によって頭が混乱する。カウンセリングでは、これを「認知的不協和」と呼ぶ。頭では(そしておそらく魂も)あることを信じているのに、別のことをしている、という自覚意識のことをいう。この不一致によって、人は生きづらくなる。だが、つくられた本来の姿のとおりに生きると、信じられないほどすばらしい利得がある。ヤコブはやさしく、以下のことも指摘する。
- (22-25節)みことばを聞き、それを「見つめて」「実際に行う」人は、 「自由」を味わい、「その行いによって祝福され」る。自分の価値観と行動を一致させると、自由になり、祝福を受ける。
- (26節)自分が信じていることと一貫するようなかたちで言葉を発すると、自分の信仰は「むなしい」ものとは感じられず、回りの人々を混乱させる可能性も低くなる。自分の言葉と信仰を合致させると、回りの人たちにも、自分の信仰の表現が信ぴょう性をもって受け入れられやすくなる。
- (27節)自分の時間とエネルギーを、弱い人たちを愛するために使い、世が与えるいろいろなものに気を取られないようにすると、信仰はいっそう「きよく」感じられるようになる。自分の行動を神の優先順位に沿わせると、神と世の両方に仕えようとするよりも、葛藤は少なくなる。
一貫性を保とう。意図的であり続けよう。焦点を見つめ続けよう。これが今日の私たちへのヤコブの奨めだ。それは決して、一貫性に欠けるとか、偽善的だとかといって、私たちがたびたび心の中で自分を叱るためではない。むしろ、信仰に一致するやり方で生き、話すことこそ、霊的な自由と祝福と、人を愛し、人に仕えることをしっかり行うことに至る最善の道であることを、私たちが心の底から理解できるようになるためなのだ。
アン・ルーロ氏は著述家、講演者、自宅で働く母親である。専門カウンセラー、および結婚・家庭セラピストの有資格者として、15年間働いた。カウンセリングの現場を離れた後、ルーロ氏は現在、フリーランスとして働き、著述家、講演者、メンタルヘルスのコンサルタントとして活動している。著作に以下の霊想的聖書研究書3冊がある。「Cultivating Joy(喜びを育てる)」、「The God Blanket(神という毛布)」、「When Faith Does(信仰が働く時)」。趣味は散歩、自然の中で過ごすこと、読書。
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